32日目
この日を最後に、毎日つけていた日記が途切れる。
ネタになる!と思って書き始めた日記だったが、飽きちゃったのか(元々飽きっぽい性格)、代り映えしない日々に疲れちゃったのか。
手元のスマホアプリを開くと、32日目に屁が消えた、とだけ書いてある。
それでおしまい。
完全にどうでもよくなってるやん、俺。
多分これ、私が入院している間に退院していった元経理課長風のじいさんのことを言ってるのだろう、と。
結局夜中に屁をひる同室患者(8日目参照)の特定は出来なかったが、経理課長がいなくなってから夜の爆音が消えたので、おそらく犯人は奴だったのだろうと推測。
真面目そうに見えたんだがなあ、人は見かけによらぬものだなあ(そういう問題か?)。
33日目
日記が昨日で途切れてしまっているので、ここからは記憶を頼りに書き進めていく。
院内にいる限りは比較的元気な部類の患者だったので、昼間の徘徊がとまらなくなる。
面会に来る来訪者向けに、待合室の意味合いも兼ねた休憩所がワンフロア開放されているのだけど、そこに一日中入り浸るように。
コロナのせいで外からは誰も来ないので、ほぼ貸切状態。
コーヒーを買って、ぼーっと外を眺める。
入院病棟にいるのが嫌で嫌で仕方がない。
お天気が良いと出かけたくなるタイプの人なんで、ベッドに縛り付けられること自体がストレスだったんだろう。
「ああ、やっぱりここに居た。血圧と検温っ、今日は採血もあるからね!」
看護師も慣れたもので私が部屋に居ないと直接待合室に来るようになっていた。
心臓の状態はあまり好転していない。
先が見えない、ってのがやっぱり辛い。
中途半端に動けるのがかえってよくなかったのかもしれない。
34日目
病院、ってことは霊安室があるはずだよな、とふと気づく。
暇なのをいいことに、院内をくまなく歩きまわってはいたが、霊安室へとつながっていそうな通路がどこにも見当たらない。
そういう場所ってのはたいてい地下にあるんじゃないか?と目星をつけるが、エレベーターも階段も売店や食堂のある地下一階までで途切れてる。
売店や食堂の横並びに霊安室を設置するはずもないし、あるとしたら地下二階、ないしは更に階下なはずなんだけど、表示すら見当たらない。
そんな折、業務用エレベーターの内面パネルに「B2」の表示を偶然発見する。
あった。
間違いなくこれだ。
なるほど、関係者以外は使用することが許されない業務用エレベーターでしかたどり着けない仕組みになっていたか。
なんとしても行ってみたい衝動にかられる。
しかしこれははっきりいってかなり危険なミッションだ。
誰も使っていないのを見計らってB2まで降りることは容易かもしれない。
だが、地下二階がどういう構造になっているのかがわからない以上、エレベーターの扉が開いた先に医療関係者がなにげに立ってる可能性だってある。
看護師に怒られるぐらいではすまんだろうな、と思う。
じーっと業務用エレベーターの閉じた扉を見つめる。
押しちゃえよ、昇降ボタンを、・・・と悪魔のささやき。
「ちょっとあなた、そのエレベーターは一般の人、使えませんよっ!」
飛び上がった。
治療中の心臓が治癒不能になるかと思った。
私の後ろに居たのは強面の警備員。
「あ、はい、いやそのはい」
もごもごと口ごもりながら、慌てて退散する私。
迷うことなく簡単に霊安室へ辿り着けてしまうホラー映画は嘘だな、と思った。
セキュリティは強固である。
いや、腰が引けただけじゃねえかよ。
35日目
薬を飲み始めて以降、色欲に突き動かされることが一切なくなった。
異性を見ても何も感じない。
この年齢で愛だの恋だの気持ち悪い、とうの昔に俺の出番はない、と常日頃自分を戒めていたので普段から受動的ではあったが、こうも完全に意識しなくなったのは初めて。
びっくりするほどお綺麗な美人看護師が病棟には数名いたが、彼女の顔が検査時にわずか数センチの距離へと近づいてきても全く動じることなし。
健康な男性ならドキドキしそうなものだけど、私の場合、頭の中は晩御飯のメニューのことをぼーっと考えていたり。
ま、ほぼ全員に近い看護師さんが常時殺気立ってたし、目が笑ってなかったので、どんなに健康だったとしても真正のドMでもないかぎり欲情するようなことはないだろうな、と思うが。
LGBTQのQってこんな感じなのかなあ、と考える。
ジェンダーレスはまた違うだろうし。
性がどうこうではなくて、性そのものが衝動ごと欠落してしまってるわけだから、概念としてはどれにも当てはまらない気もする。
これを放置すると人間そのものに対する興味自体も失せてしまうのではないか?と少し思ったが、どちらかといえばなんか楽、という感覚のほうが先に立つ。
そもそも四六時中発情してるのは人間ぐらいで、他の生物は繁殖期で区切られているわけだから。
ただ、もし表現とかする人だった場合、この状態だとすごい作品は作れないだろうな、という気はする。
医師には恥ずかしくて相談してないが、まあ、別にいいか、と思ってたりもする。